小田村伊之助(楫取素彦)について(後編)

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小田村伊之助、後編です。

(前編 >>> 小田村伊之助(楫取素彦)について(前編)

 

楫取素彦(かとり もとひこ)の誕生、小田村伊之助から名前の変更

名前を変更した理由は、幕府からの追及を逃れるためということです。

尊王攘夷派の命が付け狙われていた時期のことです。

幕府がなくなり、明治と言う新しい国家の中で、楫取素彦(小田村伊之助)は一時、中央政府にいたようですが、すぐに長州に戻り、藩に仕えて働きます。

その後、明治5年に足柄県参事、明治7年に熊谷県権令、明治9年に群馬県令を歴任し、地方政府のトップとなります。

初代群馬県令として、新しい時代の群馬を創り、名県令と言われました。

産業、教育の土台を作り、群馬県の基礎を作ったと言われています。

 

楫取素彦と富岡製糸場

明治時代の群馬県と言えば、世界遺産登録をされた富岡製糸場を思い出す方もいるかもしれませんが、実はこの富岡製糸場と楫取も関係があります。

一時、閉鎖という危機にあった富岡製糸場の近代化への意義を見出し、存続を働きかけたのが楫取なのです。

西南戦争の軍費調達の影響などもあったようです。長州と一緒に倒幕をした薩摩の影響を受けたのですね。

その後、官営として運営されるようになりました。

もし、楫取がいなかったら、今の形で富岡製糸場は無かったのかもしれません。

 

文(後の楫取美和子)との再婚

さて、吉田松陰の妹である寿との結婚生活は寿が43歳の時に病死と言う形で終わりを迎えました。

その後、妻である寿の妹に当たる文(後の楫取美和子)と再婚します。

文はHNK大河「花燃ゆ」のヒロインを演じています。

文は夫である久坂玄瑞が若くして亡くなり、未亡人となっていました。

兄弟と結婚することになるというのも、今の時代の感覚だと非常に不思議というか、、

 

小田村伊之助(楫取素彦)の晩年

楫取はその後、元老院議官、貴族院議員、宮中顧問官などの中央の要職を歴任しました。

また、幼くして亡くなった明治天皇の第十皇女に当たる貞宮多喜子内親王の御養育主任を拝命したこともあります。

明治20年には男爵の爵位を授けられ、明治23年には錦鶏間祗候(きんけいのましこう)となり、大きな栄誉を得ました。

これはお金はもらえないですが、名誉ある資格のようです。

大きな足跡を残した楫取が亡くなったのは大正元年。

幕末から明治に活躍した楫取は大正という新しい時代の始まりと共に、この世を去ったのです(享年84歳)。

 

小田村伊之助(楫取素彦)の子孫

前編において、希家と道明の二人の子供がいたことを書きましたが、このうち長男の希家が小田村家の跡取りとなり、次男の道明は一時、久坂家をその後、楫取家を継ぎます。

しかし、この道明は不運にも芝山巌事件で命を落とします(享年38歳)。

道明は教育に自らの命を捧げた六氏先生の一人なのです。

芝山巌事件とは、台湾統治を当時行っていた日本が、台湾の子どもたちに教育を施すための小学校の教師、用務員が抗日ゲリラによって殺害された事件です。

そのときの初代台湾総督は、西南戦争で熊本城に立てこもっていた薩摩出身の樺山資紀でした。

また、子孫としてはこの道明の孫に小田村四郎がおり、財界、官界、教育界などで活躍しました。

小田村四郎さんは、これをやったと歴史的なイベントを簡単に書くのが難しいですが、ほんと多方面で活動されているようです。今で言う、東大法学部出身のエリートが軍隊(経理関係)から大蔵官僚となり、経済界から教育に活動の枠を広げていった、と読み解きました。

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